
第1章 創業期 1925(大正14)年ー1942(昭和17)年
第1章 創業期 1925(大正14)年ー1942(昭和17)年
創業者工藤春三の決意
創業者工藤春三について
東濃地方では、古くは平安時代から窯業が本格化し、こ の地で培われた美濃焼によって、江戸初期から明治時代に かけて日本有数の陶磁器の産地となった。また良質の陶土 に恵まれており、明治後期には窯元300軒、精製素地事業 者800軒、釉薬130軒がひしめき、生産額は瀬戸の3倍、伊 万里(有田)の2倍にも及んだといわれている。
明治初期に は屏風山で釉薬の原料となる釜戸長石も発見され、大正時 代に入ると佐々良木川の流れを利用した水車で石を砕くよう になり、窯業の産地としてさらに活気づいた。
中工精機の創業者である工藤春三は、1903(明治36)年 4月10日に土岐郡稲津村(現・瑞浪市稲津町)で、父幸一、 母ようの間に八人兄弟の長男として生まれた。
1918(大正7) 年に尋常小学校を卒業すると、電動部品や電気の修理を行 う大池電機に入社した。ここで7年ほど営業や技術を学び、 退社した。独立起業のための旅立ちであった。



稲津鉄工所を創業
稲津鉄工所を創業
1925(大正14)年4月、春三は地元稲津村で稲津鉄工所を創業する。創業当初から、地場産業の窯業で使われる鉱石を粉砕し、粉体にする機械を主要な製品として製造した。
主に水車動力のトロンメルである。春三は、丈夫で壊れにくい本物のモノづくりを志向し研究に没頭した。さらに堅実な取引もあって、商売は大きく拡大した。

戦時下での模索
航空機部品の製作を主業に
稲津鉄工所は創業から10年で順調に発展し、地域の窯業機械メーカーとして確固たる地位を築く。社員も数十人に増え、全国の窯業集積地から引き合いがあった。しかし順調な事業の背後で、日本には戦争の足音が忍び寄っていた。
日本軍は1931(昭和6)年の満州事変によって中国に進軍を始め、1937年の盧溝橋事件をきっかけに全面的な日中戦争となった。同年には「軍需工業動員法ノ適用ニ関スル法律」が公布され、戦時体制下で軍需生産を増強するために、民間工場を動員する体制が整った。さらに戦争が長期化する中で、政府は1938年国家総動員法を施行して労働力や物資を統制し、民需産業を極度に切り詰めて軍需産業を拡大していった。
春三はこうした状況の中で、中島圭三(後に瑞浪商工会議所会頭)とともに、1939年航空機部品の製作を始める。当時名古屋市は航空機製造の拠点であり、東海地方には部品の需要があった。こうした中で1941年には、真珠湾攻撃を皮切りに太平洋戦争が始まった。戦況が進むにつれ総力戦の色合いは濃くなり、稲津村(現・瑞浪市)にも航空機を製造する地下軍需工場のための地下壕が何箇所も掘られた。稲津鉄工所は戦火が強まる中で航空機部品の製造を続けたが、資材も労働力も不足し、惨憺たる状況であった。
1942年12月、春三は稲津鉄工所を岐阜県土岐郡土岐町(現・瑞浪市土岐町)に移転し、自らを代表社員とする中工精機合資会社を設立した。社名は、中
島の中と工藤の工が由来となっている。その後、終戦を迎えるまで300名の工員と共に、各務原陸軍航空廠の協力工場として航空機部品の製作を続けた。




Topics①
こんなところにも中工精機
当社の製品は、さまざまな分野で活用されている。粉砕するモノや方法は多岐に渡っており、驚くようなことにも使われている。
一例までにその用途を挙げれば、化粧品に配合するための原料を細かくすり潰すことだったり、加工食品用途の乾燥玉ねぎの粉砕だったり、土壌改良剤に使うため廃棄されたガラスを粉砕することだったりといった具合だ。
さらには、壁の塗料に活用するため、ホタテの貝殻を粉砕したいという相談や、肥料として再利用するために、自治体から汚泥の粉砕機を受注した例もあった。廃棄物であっても、細かく均質な状態へと変えることで、意外な活用方法が見えてくるといえるだろう。
当社は粉砕のプロとして、資源の有効活用や環境保全、新たなビジネスの創出をも後押ししている。
Topics②
大物加工に中工精機
中工精機は近隣エリアでは類を見ないレベルの大型加工機を積極的に導入することで、大物加工を一手に受注してきた。たとえば、門型5面マシニングセンタは、その加工特性を生かしてチップマウンターと呼ばれる電子部品をプリント基板に配置する装置の部品を切削加工する。
また、OM製ターニング&ドリルの大型機では、従来別工程だったターニングによる旋盤加工とドリルによる穴あけ加工がワンストップで対応できるため機械の載せ替えの必要がなくなり、缶体部品製造を効率的に行うことが可能となっている。
また、大型油圧プレス機用大物部品を現在までに数件程度受託しており、今後もこれら大型プレス機用途の受託を増やしていく予定である。東海地方だけでなく、日本全国から“ 大物加工なら中工精機”と認知される日を目指して、当社はますます大きな加工にチャレンジしていく。