第2章 確立期 1943(昭和18)年ー1970(昭和45)年

第2章 確立期 1943(昭和18)年ー1970(昭和45)年

確立期

日本が敗戦から復興を遂げる中で、東濃地方の窯業も徐々に息を吹き返していく。

当社は窯業機械の本業に復帰して技術を高め、大型案件へも事業範囲を広げていき、それと並行して、
春三は地域の産業をも牽引していった。

戦後の復興を担う

中工精機株式会社の発足

戦火の中、航空機部品の製造を続けていた中工精機合資会社は、1943(昭和18)年に株式会社に改組し、春三が取締役社長、中島は社外取締役に就任した。戦況は厳しくなっていたとはいえ、いまだ戦争の終結が見通せない中、当社は窯業への復帰を見据えて、株式会社化を実施したのであった。

工員は330名となっていた。2年後の1945年、広島、長崎への原爆投下によって、太平洋戦争が終結する。一面焼け野原となった国内の物資不足は深刻であり、当社においても原料や燃料の確保に苦労したが、いよいよ本業である窯業機械の製造に復帰できることは大きな喜びであった。

前年、春三の長男春美が入社し、大学時代の経験(神奈川大学工学部機械工学科。当社に入社のため中退)を生かして営業と設計を担当し始めた。当時、マンガン鋼等の鋼材ロールのロールクラッシャーしか存在していなかったが、当社はアルミナを使用したロールクラッシャーを日本特殊陶業(以下、日特)に提案し開発した。これは中工式高速ロールクラッシャーとして当社の主力製品となり、微粉砕機として東濃地方の窯業に活用された。

また、固定歯と動歯の間に原料を落とし込み、強力な圧縮作用によって原料を破砕する粗砕機ジョークラッシャーなども製造した。その他に汚水処理機械各種や、溶解機械、撹拌機などもあった。いずれも自社での組立だった。

戦後の復興を目指し、国が陶磁器の輸出に力を入れるのを受けて、1947年には輸出用の洋食器を製造する稲津製陶株式会社も新たに設立した。同社は1959年まで12年間にわたって事業を続けたが、改めて中工精機の機械事業に一本化すべく、1960年に春三の娘婿の伊藤正三に事業を委譲している。陶磁器の需要増により、窯業の復興も進んでいった。

工藤春美

ジョークラッシャーの打ち合わせ
組立過程のジョークラッシャー
ロールクラッシャー(左)とジョークラッシャー(右)

地域、産業界への貢献

戦後当社の事業が軌道に乗り、地元の窯業を支え活気づくようになると、春三は地域の要職にも就任し、本格的に地域を牽引していった。1947(昭和22)年に稲津村村会議員となると、1949年には稲津村民生委員に、1951年には稲津村消防団長に就任した。1954年の市制施行で、稲津村を含む町村が合併し瑞浪市が誕生すると、同年市議会議員、1956年には瑞浪市教育委員会委員に、1961年には教育委員長にも就任した。

春三はこうした公職への参画と並行して、地域の陶磁器業界・窯業全般に対しても貢献を続け、その発展のために尽力した。1947年稲津製陶の創業と同時に、瑞浪陶磁器工業協同組合に加入、1949年からは理事を務めた。

当時瑞浪の窯業の主力は東南アジアなどに向けた輸出であったため、1949年にドッジラインによって1ドル360円の単一為替レートが設定されると、復興間もない東濃地方の窯業は大きな打撃を受けた。稲津製陶も例外ではなく、春三は自身の会社の立て直しを進める一方で、業界全体の事態打開のためにさまざまな策を講じる。輸出一辺倒から内需にも対応できる体質への転換を目指し業者を説得し、それに合わせた製品の転換に精を出したのである。

そのためには、原料供給の改善が必須であると、1962年には釉薬製造のための共同施設の開設にも携わった。また、自社のトロンメルやその他の設備と技術を、組合に提供もした。こうした業界への貢献を続け影響力を持つようになると、1963年には板金業者の経済的な安定や地位の向上のために同業者に呼びかけて、瑞浪市鉄工板金組合を設立した。

各社の経営改善や安定化のために、組合の中に経営改善のための資金を融資する制度を設け、企業体質改善の助言なども行った。また先進地の視察や技術指導によって、事業の革新も先導した。

1960年に商工会法が施行され商工会に法人格が与えられると、春三は商工会の発起人にも加わり、1964年に岐阜県第一号となる瑞浪市商工会を設立した。ここでも金融委員として小規模事業者の救済などに努め、1962年の瑞浪商工信用組合開設にも取り組んだ。また、もともと瀬戸市で行われていた近代窯業機械展を、1965年瑞浪市に誘致することにも尽力した。

台湾メーカーへの据付指導
カンボジアメーカーへの据付指導
ベトナムメーカーへの据付指導
近代窯業機械展の様子

業容の拡大と苦境

大型プラントへ業容の拡大

春三が地域や業界と一丸となって事業を推し進めていく中で、当社は、技術面においても取引においても着実に成長を遂げ、陶磁器製造プラントの東南アジアへの輸出において当社の粉砕機が使用され、ファインセラミックスメーカーの設備増設、タイルメーカーの原料部門増設に当社の製品が使用されるといった実績も増えていった。

それまでもプラントの実績は東濃地方を中心として全国にあったが、1958(昭和33)年に春美が専務に就任すると、翌1959年には海外での初の実績となる窯業プラントをベトナムに自社単独で施工した。大南公司を窓口とし、サイゴン(現・ホーチミン)ビンズオン製陶工場の機械部門を受注した。春三は自ら現地に出向き、4カ月にわたって、機械の据付はもちろん、運転指導や技術指導者の育成を実施した。

この経験を生かし、その後は台湾などでも技術指導を行っている。こうした実績は、当社が技術面やノウハウにおいて、国内外からの強い信頼を得る契機となった。大きな信頼と期待の下、1963年には日特製品のOEM 製造を開始した。春美が同社との交渉から設計、図面制作までを一貫して担った。当社がトロンメルの缶体等の本体、日特がトロンメル用ライナーという分業であった。

同社との技術提携によって、ロールクラッシャーのマンガン鋼ロールをアルミナロールへと変更すると、耐摩耗性の向上とともに、鉄粉などの混入を抑え、破砕時間の短縮も実現する等、当社の技術の発展につながった。

その後、動力がギア駆動からベルト駆動に変わることで静音化しただけでなく、メンテナンス性が向上し、給油も不要となった。この技術提携から日特との関係性は深まり、1965年から海外大型プラント向けのボールミルを日特のOEMとして、複数年にわたって受注することになった。

プラントは東欧、米国、その他欧州の案件であり、大学で機械工学を学んだ土本博道が技術営業として力を発揮した。さらに1978年から春三は、日特の協力工場100社以上で組織された「日特協力会」の会長を務めるに至った。1970年代を目前に電子工業が急速に発展すると、工業用部品としての陶磁器、つまりファインセラミックスの需要が大きくなっていた。

当社では1968年ごろから、社内での粉砕試験を増やし、実験データを多数採取していた。データに基づいた営業によって、機能や品質を重んじるファインセラミックス分野での受注増を意図したものだが、狙い通り大幅に受注を増やしていった。急増する需要に対応するために、1970年には新たに事務所を設け工場を増設し、万全の体制を整えた。

当社製シックナー
天然珪石ライニング
組立中の大型ボールミル
ボールミル缶体を製造する当社社員

苦境を越えて

売上を大きく伸ばす中で、1968(昭和43)年春美が持病により43歳で他界した。これから事業を継承して、大手企業との取引や海外プラントの事業などをさらに大きく育てていく最中での死去であった。

組織の核となる人材が去った当社には、春三の甥である工藤誠が入社し、設計と営業を担うこととなった。1970年には、当社の粉体装置を輸出する際に、発注元の商社が輸出禁止金属を同梱してしまうという大きな事件にも見舞われた。

これらの製品を当社が全て回収することになり、会社は経営危機に陥り、差し押さえが入ったこともあった。また仕入れ業者からは手形不可となり、現金決済の取引となった。幸い、これまでの実績や信頼もあり、金融機関からの手助けを得て、当社は経営危機を乗り切ることができた。

製造過程のコニカルチューブミル
当社工場で働く社員

Topics③

中工精機構内で発見された遺跡

当社の本社事務所の北側には、遺跡が残されている。この遺跡が発見されたのは、本社建設工事中のことだった。一見しただけで何かの遺構だと気付く。この独特の形状によって古墳時代(7世紀頃)の円墳だと考えられている。

当社では、地域の遺産を地元にも還元したいと、毎年構内を開放し、古墳見学会を開催しており、地域の歴史好きの方に親しまれている。2024(令和6)年現在までに見学会を3回開催し、様式、造り、時代の調査や測量などを重ねており、新たな歴史の真実が解き明かされる日も近いかもしれない。

Topics④

二次電池に中工精機

高機能素材向け微粉砕機

二次電池とは充電して繰り返し使える電池で、スマートフォンから電気自動車まで、至るところで使用されている。現在最も一般的なものは、リチウムイオン二次電池だが、より安全で大きなエネルギーを取り出すことができる「次世代二次電池」の開発が進行中だ。

中でも特に安全性の高い「全固体電池」は、車載用電源としても期待されている。こうした電池製造に欠かせないのが、原料となる有機・無機・金属素材を超微細に粉砕したり、粉砕の過程で衝撃を与えることで新材料を生み出したりする粉砕工程だ。

たとえば当社の高機能素材向け微粉砕機は、回転速度が非常に速いため、媒体同士が摩擦ではなく衝撃によって、微粉砕化し、反応が起こる。これまでのボールミルとは全く異なる機構の開発によって、メカニカルアロイング※が可能になっている。ただ粉砕するだけではないプラスアルファの高精度な技術が、全世界から注目を集めている。

※メカニカルアロイング:
2種類以上の金属粉末と共にセラミックスなどの粉砕媒体を入れたボールミルを回転させ、粉砕媒体の衝突エネルギーを利用して、金属粉末への加圧、展延を繰り返すことにより粉末同士を微細に混合し合金を作る方法。