創業者 工藤春三について

創業者の足跡 ―工藤春三が築いた技術と信頼―

志ある青年の創業

1903年(明治36年)4月10日、瑞浪市稲津町に生まれた工藤春三は、23歳という若さで稲津鉄工所を創業しました。1925年(大正14年)当時の東濃地方は、古くからの陶都として知られ、窯業関連産業が地域の経済を支えていました。若き工藤は、この地域の発展に貢献したいという強い思いを胸に、窯業機械の製造という道を選びました。

創業者 工藤春三
稲津鉄工所(中工精機株式会社前身)

技術への探究心

創業当初から、工藤は地場産業の窯業で使用される鉱石の粉砕機械の製造に着目しました。主力製品として水車動力のトロンメルを手がけ、その製造過程で培った技術と経験は、後の技術革新の礎となりました。特に注目すべきは、当時一般的だったマンガン鋼等の鋼材ロールのロールクラッシャーに代わる、画期的な製品の開発です。

瑞浪市陶磁資料館に展示のトロンメルと駆動用水車
客先工場に並ぶボールミル(奥)とフィルタープレス(手前)

日本特殊陶業との協働により実現したアルミナを使用したロールクラッシャーの開発は、業界に大きな革新をもたらしました。この「中工式高速ロールクラッシャー」は、微粉砕機として東濃地方の窯業界で広く採用され、当社の代表的製品となりました。さらに、強力な圧縮作用による粗砕機「ジョークラッシャー」の開発など、工藤の技術革新への情熱は留まることを知りませんでした。

創業者 工藤春三による粉砕機製造の覚書

経営者としての信念

工藤が経営者として常に重視したのは、「丈夫で壊れにくい本物のものづくり」という理念でした。製品の品質向上に妥協を許さない姿勢と、顧客との誠実な取引は、創業期から守り続けた信念でした。この姿勢は、困難な時期においても揺らぐことはありませんでした。

大型ボールミル缶体製造の様子

1942年(昭和17年)には、現瑞浪商工会議所会頭となる中島圭三氏との協力関係のもと、社名を中工精機株式会社に改め、事業の拡大を図りました。戦時中は航空機部品製造への転換を余儀なくされましたが、終戦後は速やかに本業である窯業機械の製造に立ち返り、地域産業の復興に貢献しました。

昭和時代の中工精機外観と外に並ぶボールミル缶体
社内工場の様子

地域社会への貢献

工藤春三の功績は、企業経営にとどまりません。地域社会の発展にも深い関心を持ち、数々の公職を通じて地域の発展に尽力しました。1948年(昭和23年)から1952年(昭和27年)まで稲津村会議員を務め、1951年(昭和26年)には稲津消防団長に就任。さらに1958年(昭和33年)には瑞浪市教育委員、1961年(昭和36年)には同教育委員長、1963年(昭和38年)からは瑞浪市会議員を務めるなど、地域の産業・文化の発展に深く関わりました。

昭和36年 東濃新報に掲載

人を思い、地域を想う

工藤は世話好きな性格で、義侠心に富み、常に周囲への配慮を忘れない人物でした。企業の発展と地域社会への貢献の両立を目指し、その生涯を通じて「人づくり」の重要性を説き続けました。趣味の盆栽とゴルフを通じても、多くの人々との交流を深め、その温かな人柄は多くの人々から慕われました。

継承される精神

創業者工藤春三の意思は、長男・春美(当時専務取締役/1968年(昭和43)43歳で他界)へ、孫・好功(3代目社長)へ、確実に受け継がれています。会社運営は安定した成長を続け、創業者の思い描いた「技術と信頼」の精神は、新しい時代においても脈々と生き続けています。

創業者が築いた礎

工藤春三が確立した「技術への探究心」「誠実な経営」「地域との共生」という三つの理念は、現在も当社の企業文化として深く根付いています。2024年(令和6年)の中小企業白書への掲載は、まさにこうした創業者の精神が現代においても高く評価された証といえるでしょう。

2024年(令和6年)中小企業白書

出典:中小企業庁ウェブサイト
https://www.chusho.meti.go.jp

これからも当社は、創業者・工藤春三が築き上げた「技術と信頼」の精神を大切に守りながら、新しい時代の要請に応える企業として、さらなる発展を目指してまいります。

   

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